運命的な出会いにするかどうかは自分次第

アドラー心理学の著書で一躍有名人となった岸見一郎氏が言う。

「偶然あるいは幸運でしかなかった出会いを、その人にとって後に意味あるもの、必然のもの、運命的なものにするかしないかは自分次第である。」

と。また同時に岸見氏は

「こちら側の準備が出来ていなければ、その後の人生を変えうるような意味のある出会いにはならないだろう」

とも言っている。「準備」とは「何かを求める心、受け入れたい体制」など、色々言い換えられるだろう。

これを読んで自分の学生時代を思い出した。

僕が高校2年の頃、将来に希望を見いだせないで悩んでいた時期があった。漠然としていて、何をしたいのかもわからない。無力感でいっぱい。でも、何かしなければ、どうにかなってしまうという危機感だけはいつもあった。

いろんな本や、新聞、テレビ、何か、漠然と読み漁っている時に、富士宮で国際貢献活動をしている人の記事を見た。田舎なのに、世界的な活動している人がいるんだなあ、と、感心してその記事をスクラップしてとっておいた。

半年後の高校3年。相変わらず目標のない漠然とした日々を過ごしてはいたけれど、一つ変わった事は、なぜかクラス委員になったのだ。さらには「真面目そうだから」という外見ベースの謎の信託により、学年全体の委員長を任され学園祭の企画を一個担当しなければならなくなった。だが、そんな企画をしたことも無い自分がどうしたらいいのか?

悩んでいたら、ふと、半年前にスクラップした記事を思い出して、新聞社に電話して国際活動しているその人に合わせてもらうことになった。結果、意気投合して、高校で恵まれない国の子供たちに文房具を送る活動、というものを企画し実行することになった。誰もがやったことない事柄なので、委員のみんなとも相談しながら手探りで運営。なんとか無事終えることができ、集めた文房具は活動家の方を通じて送ることができた。

仲間から「がんばりが報われて良かった」「良い経験ができました」色んな感想が来て、自分の中に、18年の人生で感じたことのない感覚がじわじわあふれ始めてきた。

何もできないと思っていた自分が、ふとしたきっかけで、活動を起こし、形にすることができた!

なんとなく、見かけた記事、たまたまそれをとっておいた自分、連絡をとった自分、やることを決めた自分、学校の仲間に報告して一緒にやることになったこと。これがきっかけで広い世界があることを知って、大学行く気なかったけどいく事になって、そこで今の仕事のベースとなるパソコンとの出会いがあって、学園祭活動して、広告代理店勤務して、独立して今に至る。

すべては、少なくとも最初は偶然の連続でしかなかったけど、後になって、あれは大きなことだったなあ、転換期だったなあ、と思うようになった。

岸見一郎氏が言うように、自分が「あれは意味のある出会いだった」と意味づけをしたのは、確かに「後」だった。

最初のきっかけになった記事。何をやりたいのか、進む道に迷っていて、やみくもに出会った当時の記事は、半年前はいわゆる「準備」ができていなくて力を発揮しなかったが、出会う準備ができた段階で、それは大いなる道しるべ、最も大きな出会いのきっかけになりえた。

4月12日。昨日。

実は「これはまたきっと、大きな意味のある出会いになるのだろうな」と思える方と、仲間の紹介で出会うことができた。「こういう人居ないかな」と、以前から人を探していたが、その事を仲間が覚えてくれていたのだ。先日入社したK君もそうだった。

今回は意味づけが早かった。まあ、後でまた意味づけが変わるかもしれないが。言葉を扱うライター業のその方とのやりとりの中で、何を発信するか、受け取るか、いや、そもそもどんな気持ちで仕事するのか、自分は何が向いているのか、向いてないのか、色々考える大きな運命的な機会になりそうである。

今日の教訓

私の側に準備(=何かを求める心、受け入れたい体制)があったから、偶然の出会いを必然に変えることができた。

※逆を言えば、準備ができていない人に何を伝えても、出会いの場を提供しても、本人が「それを意味あるもの」とは考えることはなかなか難しいだろうな、と思う。