23歳無謀起業して20周年、何故続いているかについて考えてみる(前編)

起業・独立・創業

1999年、デザイナーとして起業した。田邉、一人。

はっきりいって、起業したとは言えないくらい、小さな無謀なスタートだった。とはいえ、ブラック企業につとめて、毎晩遅い日々で、心身ともに限界を振り切っていたので、そこにいるストレスよりは、全然楽な気分であった。

独立。田邉一人。厳密には、二人であったが。同僚の先輩と一緒に広告代理店を辞めて同時期スタートしたのだが、創業したてなんて、たいてい何かあるから会計は別々がいいよ、と、当時世話になったフリーランスの先輩の助言もあってそうした。というより、この先輩が「若いし、独立も面白いんじゃない。君ら二人でコンビならなんとかなるだろうし」といったのを真に受けてその気になってしまった。のちに結婚式に招待した際に「まさかあの時、本当にやるとは思わなかった」と、有難いスピーチを頂いた。

一般には、仕事があって、またはあるのを想定して起業する。自分のように勢いで起業する人は、まあ稀だろうなあ。しかも、1999年、当時23歳。大学出たての、社会を知らない若造であったから、なおのこと、阿呆である。そんな自分が今年20年を迎える事は奇跡に近い。単に、「続けたから続いた」のだが、どう続けたのよ?と突っ込まれそうなわけで、起業して続いたことの理由について少し考えてみた。

死なない環境を作る

スタートアップ、なんとか最初の3年、何故やってこれたかを考察すると「仕事がなくても死なない環境を作る」という事に尽きる。1999年の秋に、実家のある静岡ではなく、学んだ大学のあった愛知県豊田市で創業。前職でお世話になった方、先に起業していた大学の先輩からお仕事を頂いて走っていた。

若すぎ。バカすぎ?

だが、母が長年の病気で入退院を繰り返しており、兄弟全員実家を離れていたこともあり、半年後の2000年3月24日、静岡に帰省して実家のある富士宮市で改めて再スタートを切った。勢いで起業したくせに、半年で実家に逃げ帰るのか?と、悩みもしたが、忘れもしない、独立後初のお客様であった美容室の先生に相談した時に「親のことを思うなら、それは逃げでも何でもないし、むしろそうすべき」とアドバイスをもらって、最後は決意した。

5年ぶりの富士宮。生まれた町といっても、ある意味何も知らない。まだ、豊田のほうが知っている。手探りでのスタート。仕事も最初はゼロ。親と親戚、友達以外誰も知らないんだから当然。だが、そんな親親戚友人には極力頼りたくないと思い、一切営業もせず、お知らせも大してしなかった。月に数回、愛知のお客様のところに出張してお仕事を継続していたが、今となっては、出張費考えるとバリバリの赤字であるが、良し悪しはともかく大学時代の仲間に会う用事もセットにしていたから割り切っていて、仕事のついでに同窓会というより、同窓会のついでに仕事みたいな状況でもあった。

富士宮で仕事のない間はどうしていたかというと、父親が鉄工業をやりながら農業を兼業でやっていたので、コメ作りのバイトしながら、最低限、家で飯だけは食わせてもらっていた。

これが実情であるが、これが大事であった。だって「これなら死なない」わけで。

恥も外聞もない。生きてないと何もできない。半分家事手伝いであってもなんでも、死なずに生きていれば、少しずつ営業していく機会もあるだろう、ということで、作業の無いときはパソコンに向かい、データを作ったり、情報収集をして少しずつ活動準備。

死なない環境を作ることが、継続のための最初のステップである。

顔を出す 人から人に繋がる

かくして、死なない環境を地元に再構築できた自分。家に甘えてたんでしょ、と言われればその通り。だが、3人いる息子が全員居なくなってしまった田邉家としては、一人でも帰ってくればうれしいわけで。自分が親だってそう思う。その甘えられる猶予のうちに、せっせと活動開始。

【ネットワーク拡大その1】NPO法人でのパソコンボランティア

が、営業などろくに経験していないし、地元のことを何も知らない。いかに、高校時代までの世間が狭かったか、ということを思い知る。でも、何かをしなければということで、帰省前から知っていて、富士宮の地域のホームページを作っている、勝手に心の師匠と思っているSさんに帰省報告に。他愛もないパソコン、ネット談義をしながら、何回か遊びに行っているうちに、「そういえば、仲間がパソコンを教えるボランティア、なんでも、NPOっていう新しい枠組みを立ち上げるらしい。パソコン詳しい講師を探しているから一緒に行ってみようか。」という事になり、パソコンボランティアに参加しだした。

当時の様子。2001年9月6日

富士宮で最初のNPO法人の団体でボランティアパソコン講師を3年近くは続けたように思う。別に営業というつもりは全くなかったのだが、参加していた講師仲間や生徒さんから、ちょっとこれ頼みたいけどできるかなと、印刷、ホームページ、パソコンの設定など細かいお仕事を頂けるようになった。ここでの出会い、人脈はのちのちに大きな影響を及ぼすことになった。

【ネットワーク拡大その2】ネットサークル

並行して、富士宮好きが集まっているらしい、とあるネット上のサークルがある事を知り、メールしてみたらご新規さん歓迎、ということで、恐る恐る参加してみたら、みんなネット大好き、パソコン大好きメンバーであったので一気に意気投合して、常連になった。そのうちの何人かは、先のNPO法人にも誘ったりして、一緒に講師をやったりもした。直接的な営業とかにはならないものの、地元での知り合いが増えたことは、心の安定材料であった。

【ネットワーク拡大その3】音楽フェスティバル

2000年の夏のある朝、起き抜けの時間に、訪問者があったので窓を開けると父が呼んでいる。「俺の仲間がなんだか音楽イベントをやりたいんだって。話聞いてやって。大学時代バンドとかやってたよなね?」と。出てみると見知らぬおじさんが目の前に。そのAさんは「富士宮で、大きな音楽コンサートをやりたいんだ。」と。これがのちに、朝霧JAM実行委員会の設立に繋がるファーストコンタクト。2000年はその設立の前年で、新潟の苗場までフジロックフェスティバルの視察に行ってきて、カルチャーショックを受けたのを覚えている。

2000年7月のフジロックフェスティバル視察。なんだこの髪(笑)

その後、2001年の一年目と2002年二年目の朝霧JAM実行委員会の事実上の事務局は、田邉家のカボスの事務所内になった。夜明けまで資料づくりしていたことが懐かしい。ほぼボランティアだったので、限りある資金の中でぎりぎりの生活。でもここでも拾う神があり、その活動を通じて知り合った行政マンが、取引のあったシステム会社を紹介してくれて、そこから仕事が広がった。

この時のシステム会社は、20年目を迎える現在も取引を続けていて、5年目に法人化する際もだいぶ助けてもらった。

さて、色々稀有な環境や支援が重なり、死なない環境からはじまり、徐々にスタートアップを乗り切ることができた田邉元裕、23歳~25歳あたりの様子はそんなところだ。まあ、できれば起業するなら、 副業して食える見込みができたら本業にするとか、信頼を得て、居た会社から仕事をもらって独立など、 もう少し仕事の当てをつくって、準備してからがおすすめなのは言うまでもない。

自分の場合、とりあえず起業して、副業・バイトで本業をやれる体制をフォローしながらという、逆のスタートだったわけで、あまり参考にならないかもしれませんが、20年の幕開けはそんな感じ。

嫌いにならない限りは、辞めるという選択肢は除外する

現在でもそうなんだが、そんな中で決めた事として「嫌いにならない限りは続けよう。辞めるという選択肢は無しにしよう」という自己内基準を持つようにした。これが思いのほか重要で、現在も迷った時の基本的な心の指標の一つにしている。

かくして「続けたら続いた」という冒頭の一言はここからきているわけで、続ける以外の選択肢が無かった!とも言えるのである。

後編に続く